2009-01-12
デザインの罠
母校のデザイン科のルーツだということで、上野伊三郎・リチ展に行ってきました。
「デザインは自己表現ではない」
その事にちゃんと気付くまで苦労したもんですが、その悩みのルーツも、直接的原因ではなくとも、こういう時代のデザインにあるのだ、ということがわかった気がします。
あ、もちろん今回の展覧は非常に興味深かったし、面白かったですよ。
さて、今でこそコンピュータでデザインするのはあたりまえで、それは作り手のコンセプトを形に表す、というデザインの機能には、デザイナーの画風など必要ないからです。
手法を模索して行くと、結果コンピュータでアートを、手書きでデザインを、となることはもちろんあるけれども、少なくともデザインとアートの「入り口」は、いまや割と分かりやすくなっているのかなと。
でもこの時代は、デザイン(図案)であろうが、アートであろうが、全て手書きだったんですよね。
今回の展覧会のように、デザインとして作られたものが、額に入れられ、さも価値の高いもののように展覧されることも、一度ならずあったでしょう。
その時その展覧の評価に対し、そのデザイナーが「自分の手仕事を褒められている」と勘違いしてしまうことは、容易に想像できます。
でも、デザインはデザイナーのためのものではありません。
褒められるべきは、そのデザインによってユーザーの生活がどれくらい豊かなものになったかどうかであり、その図案がアート的にどう素晴らしいかではありません。
デザイナー本人はなんとか踏みとどまったとしても、その周りにいる人、弟子たちはどうでしょう。
「自分もいつかあんな風に評価をうけたい」そんな邪念が、そこに生まれてしまうことは、止められないかもしれない。
そしてその偏ったデザイン観は、時代の流れの速さよりもゆっくりとしたスピードで、次世代に伝えられていってしまう。言ってしまえば、偏ったデザイン観をもった教授が教鞭をとっている期間が長ければ長いほど、その学校の時間は昔のまま止まっており、現代とはギャップが広がってしまうことになる。
昔のデザイン観自体を否定するわけではありません。
大昔、科学と哲学が同じものだったように、昔はデザインもアートも、同じ地平に並んでいたに違いありません。その間を自由に行き来し、今に通じる形を作って来たのでしょう。
ただ、そのデザイン観が今に通じるかというと、そうではないと言う事です。
自分の中にある(つまり、そう教育を受けた)デザイン観と、現実とのギャップにつぶれていくデザイナーもたくさんいます。
僕の同級生で今でもデザイナーをやっている者の、なんと少ないことか!
くりかえしますが、
「デザインは自己表現ではない」
そこにきちんと気づいた事、一種の悟りとも言うべきものを得た事が、もしかすると僕の人生の中で一番大きな出来事なのかもしれないですね。
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